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松本恵二さんを偲んで

何よりも笑顔の綺麗な人だった。

松本恵二さんを偲んで

恵二さんと僕との出会いは、今からちょうど20年前の1995年に遡る。

1995年。
決して記憶から消えることのないあの忌まわしい阪神淡路大震災の後、色々なご縁が巡り巡って、僕は当時日本の最高峰のレースであった「全日本F3000選手権」へ「チーム童夢」から参戦することになった。
ちょうど時を同じくして、若手の育成を任され童夢のチーム監督を務めることになったのが、松本恵二さんだったのだ。

1992年に武者修行で2年間を過ごしたイギリスから帰国。
この年に当時F1を引退したばかりの中島悟さん率いる中嶋企画からオファーを頂き、「F3」と「F3000」にダブルエントリーをしていたことがある。
ちょうど僕が20才の時だ。

松本恵二さんを偲んで

現在とは若手ドライバーに対する環境や考え方なども全く違っていた90年代、そんな中トップカテゴリーでのダブルエントリーは、今思い返してもワイルドな挑戦だったようにも感じる。

僕自身の本心としては、18歳の終わりから2年間を過ごしたイギリスに残り、そのままヨーロッパでステップアップしていくことを強く望んでいたが、当時お世話になっていた中嶋企画さんの方針で日本に戻りレースを戦うことになったのだ。
これはちょうど中嶋悟さんがF1を離れ日本に戻り、自らが本格的にチーム監督としてのキャリアをスタートさせた最初のタイミングでもあったと記憶している。
これは現役時代にプロフェッサーの異名を取ったアラン・プロストが1997年にリジェを買収し、F1のチームオーナーとしてのキャリアをスタートさせた時と少し状況が似ているかもしれない。
始まりはいつも雨…ではないが、何事も始めた直後には山あり谷ありが多かったりするものだ。

日本に帰国した1992年、この時僕はマシンの不調など色々と難しいタイミングも重なり、本当に苦しい時間を過ごしていた。
海外での2年間の武者修行を終えて意気揚々と帰国した僕を待ち受けていたのは、まさかの茨の道でもあったのだ。

そして、この日本に帰国した1992年には、「F3000」で初めて松本恵二さんと同じレースを戦うことになる。
1992年は恵二さんがレーシングドライバーの引退を決めた年だったのも、今思えばちょっと不思議なご縁だと思う。

この当時の恵二さんは、まだ僕にとって雲の上の存在だった。
余談だが、そこから更に遡ること10年くらい前になるだろうか、当時国内最高峰のレースであったF2時代、恵二さんは僕の父とも同じレースを戦っていた時期があったらしい。
歴史だなぁ…。
こうして文章を書いていると、ちょっと感慨深くなってきてしまう。

1993年からは中嶋企画さんを離れ、色々なご縁もあり、それまでとは全く違った体制で「全日本F3」を2年間戦うことになった。
そこから信じられないような不思議な巡り合わせを経て、恵二さんとの1995年の強烈な出会いに至ったのだ。

ここでの恵二さんとのご縁が、僕のレース人生に大きな変化と可能性を与えてくれたことは言うまでもない。
この頃はカート時代からずっと一緒だった無限の本田博俊さんはもとより、1995年にはチームのメインスポンサーであったAVEXの松浦正人さん、そして童夢の林みのるさんとの僕のレース人生におけるとても大きな出会いもあった。

こうした沢山の素晴らしい出会いに導かれ、これまで長い間モータースポーツの世界で戦い続けてこられたことは奇跡と言っても過言ではないだろう。

松本恵二さんを偲んで

自らの手でチームとの交渉からスポンサー交渉などを行うようになったここ十数年は、これまでお力添えを頂いた全ての方たちへの感謝という言葉では伝えきれない感情が、それまで以上に大きなものになっていることを実感することが出来ている。

初めての恵二さんとの仕事は、鈴鹿サーキットでのF3000テスト走行だった。
恵二さんの日本人離れしたルックスとスタイルは当時から郡を抜いていて、圧倒的な存在感があった。
サーキットでは常に強面の表情を崩さなかったが、それは常にいい意味で僕に緊張感を与えてくれていたように思う。
恵二さんとの初めての仕事になった鈴鹿でのテストのことは、今でも鮮明に僕の記憶の中にある。

選手を育てるにあたって、恵二さんは独自の理論のようなものがあった。
それはともすれば少々古い考えのように映るかもしれないが、実はとてもシンプルで理にかなった理論でもあったと僕は思っている。
特に僕のような理論派で少々心配性な性格のドライバーにとっては、特効薬にもなり得る方法論でもあった。

信治どうや?いけそうか?

うーん…、まだ分かりません。

とりあえずいってみたらええねん。
俺を信じて踏んでこい!
行ける言うたら行けるねん!

ほら、いけたやろ。

これだけだと一瞬ただの根性論のように聞こえなくもない。
だが、実はタイヤの状況やガソリンの量などを恵二さんの経験の中で微妙に計算し調整していて、僕が必ず行けるであろう環境を作ってくれていたのだ。
恵二さんのマシンに関する分析力は周りが想像している以上に鋭い。
そんな恵二さんマジックが、あっという間に僕の心の扉を開いてくれたのだ。

こうして僕がそれまでに作り上げてしまっていた自らの限界を、恵二さんが一つずつ壊していってくれた。
初めての恵二さんとの2日間のテストを終えた鈴鹿サーキットには、完全に自信を取り戻している僕がいたのだった。

それは僕にとってまさに魔法だった。
恵二さんの恵二さんらしいやり方で、僕に魔法をかけてくれていたのだ。

そこから僕と恵二さんの二人三脚での戦いが始まり、恵二さんが現役時代にずっとつけていたカーナンバー8は僕へと託されることになった。

松本恵二さんを偲んで

いい事も悪いことも含めて、あの2年間は本当に色々なことがあった。(笑)
当時はサーキット内外を問わず、かなりの時間を恵二さんと一緒に過ごしていたと思う。
人との距離をあまり近づけ過ぎない僕にしてはかなり珍しいことだ。

僕は別に人嫌いなわけではない。
ただ近づきすぎると客観的に物事も、そしてその人自身も見られなくなるとも思っている。
僕は決して器用な人間ではない。
世の中でいうところの、上手くやっているタイプの人間でもないだろう。
僕は見た目と違って?クールに割り切った付き合いというのが苦手なのだ。
人間の本質とはなかなか外からは分からないものなのだが、恵二さんはそんな僕の本質をきちんと見てくれていた数少ない一人でもある。

恐らく恵二さんは僕とは全く違うタイプの人間に映るだろう。
育った環境も違えば何もかもが違うので、それは当たり前のことだ。
でも僕の中ではここだけは絶対に似ているなと感じられる部分があった。
それはお互いに不器用な人間だということ。
嘘がつけない。
だからつい思ったことをストレートに口走ってしまう。(苦笑)
それにより周りから誤解を招くこともあるかもしれない。

思ったことをその場で伝えずに裏で色々なことを画策し、自分のポジションを守ろうとするのは日本のお家芸なのだろうか。
僕にそんなことは絶対に出来ない。
恵二さんもやはりそんな人柄だったんだと思う。
上手く立ち回ることが重要で、それが出来る人間だけが生き残れるような世の中では典型的な駄目なタイプなのかもしれない。
日本のモータースポーツ界に限った話ではないが、そんな少し歪んだようにも思える器用さが良しとされ、正直者が馬鹿を見てしまうことも多い世の中になってきてしまっているようにも思える。
この国のモータースポーツ業界は今のままで大丈夫なのだろうか。
これからの若い選手達、またその先の未来のことを考えた時、少しばかり危惧している僕がいるのも事実だ。

そして、恵二さんとは僕がF1へと旅立った後もずっとその関係が続いていた。

松本恵二さんを偲んで

僕はヨーロッパ時代もアメリカ時代も、日本に戻ると必ず恵二さんに会いに行くことだけは変わらなかった。
京都の祇園で一緒にご飯を食べて大好きなお酒で頬を赤らめながら、昔と変わらず僕にお説教をしてくれる恵二さんの顔は、いつもどこか嬉しそうに見えた。
厳しい人だったが、とても心根の優しい人だった。

ここ数年体調を崩されてからは食事をあまり食べられなかったが、お酒だけはどうしても止められないようで、最後には必ずほろ酔い加減の恵二さんが目の前にいた。
話すことはいつもレースのことばかり。
どれだけ酔っていてもレースの話になると驚くほど鋭い話を振ってくる。
実に詳細に昔の色々な出来事を覚えていて、先にも書かせて頂いた恵二さん理論はいつお会いしても健在だった。
会を終えると毎回お酒を飲まない僕が恵二さんを自宅まで送り届けるのだが、送り届けた恵二さんのご自宅の玄関先で毎回同じ会話が繰り返されていたのを思い出す。

今日は有難うございました。
お酒飲み過ぎないで下さいね。
また一緒に何かやる時のために元気でいて下さい。

おー、ありがとう。

お前も頑張れや。
気いつけて帰れや。

酔って足元がおぼつかない恵二さんの顔は、いつも穏やかで嬉しそうだった。

毎回車が動き出した後も、恵二さんは僕が見えなくなるまでずっと玄関先に立ってくれていた。
僕が同じように最後まで人を見送るのは恵二さんの影響かもしれない。

酔って少し斜めに傾いた身体、そして綺麗な笑顔でこちらを見届けてくれている恵二さんをバックミラー越しに見ながら、涙が溢れ出てきて止まらないことが何度かあった…。

ここ数年は毎回別れ際に同じような気持ちになっていたような気がするな。

そうそう、たまに京都で恵二さんのご友人に会うときには、僕をいつもこんな感じで紹介してくれていた。

こいつF1とかインディとかルマン24とかに出よってん。
日本で一人だけや。
日本を飛び出してがんばっとんねん。
成績はイマイチやけどな。(笑)

僕の頭に手を置いて嬉しそうに話している恵二さんの姿が蘇る。

もし日本で何かやるんやったら俺が全力で手を貸したるからな。

最後に食事をしたときもそう言ってくれていた。
それが実現出来なかったのは少しだけ心残りだけれど、恵二さんの言葉や想いは一生僕の心の中に変わらず残り続けるだろう。
言うまでもなく恵二さんは、僕にとって後にも先にも、ただ一人のレース界における師匠だ。

恵二さんが育てた最初で最後のF1ドライバーとして、僕は恵二さんに何を恩返し出来るのだろうか…。
最後にはいつもこの疑問にぶち当たる。

病院での壮絶な戦いの最中にある恵二さん、最後のお別れをする時に棺の中で眠るように目を閉じた穏やかな恵二さんの顔を見た時も、全てが僕の大好きな恵二さんそのまんまだった。

最後に改めて恵二さんの恵二さんらしい生き様を見せてくれた気がしている。

最後のお別れの時は不思議と涙が出てこなかった。
でもやっぱり寂しいな…。

この後参戦することになったアジアンルマンで僕が付ける事になったカーナンバーが、偶然8だったのは、やはり何かのご縁なのだろうか。

松本恵二さんを偲んで

富士そしてマレーシアでの2連勝を報告したら、誰よりも喜んでくれていただろうなぁ。

松本恵二さんを偲んで

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